Tumaさん、あるいは田中友二へ @Tumapai

Tumaさんと出会ったのは、2009年のことだと記憶している。当時、まてこいが主宰し、私も参加していたPerfumeのDJイベント「Perfume Night」の開催中に、同じくPerfumeのDJイベント「E3!!!」のメンバーが挨拶に来たのだ。

当時「Perfume Night」と、2ちゃんねるから生まれた「E3!!!」は、敵対しているという設定にインターネット上で勝手になっていた。あの夜、青山everの階段で会ったのは、「E3!!!」の主宰者である班長、そしてスタッフのTumaさんだった。後年、「あのとき脚が震えていた」と言ったのは班長だったろうか、Tumaさんだったろうか。なぜか彼らは、私を恐い人物だと思っていたらしい。

当時、テクノポップのアーティストの現場に行くたびに会うTumaさんは、2ちゃんねるというバックグラウンドがよく浮きでた、暗い目をした内向的な青年であり、いつもフロアの後ろのほうにいた。

そのTumaさんを一変させたアイドルがいた。2011年からライヴ活動を始めた第1期BiSだ。よく覚えているのは、2011年3月だと思うが、BiSの最初の大阪遠征の映像のなかで、「nerve」でサイリウムを振って踊り狂うTumaさんの姿だった。それまでとは、まるで別人のように。

BiSとの出会いにより、Tumaさんの人格は変わった。フロアでボソボソ話すタイプだったはずのTumaさんは、Twitter上でBiSに関して辛辣な意見も大量に書き込み、他の研究員(BiSファンの総称)の反発も同意も浴び、ときにはBiSのメンバーからブロックもされながら、それでもライヴ会場とインターネットで、BiS現場を常にかきまわし続けた。泥酔しながら現場でガヤり、泥酔しながらTwitterに憎まれ口を書き込んだ。

Tumaさんが第1期BiSのTO、トップオタクだったことに異論がある者はいないだろう。2014年7月8日のBiSの解散まで、私たちは長すぎるモラトリアムをともに浪費した。

2016年に、私がBiSのマネージャーについての書籍「渡辺淳之介」を上梓したとき、多くの研究員が、私に「次は研究員の生きざまをまとめるべきだ」と言ってくれた。私もそれには興味があったが、時間の余裕があるだろうとたかをくくっていた。その結果、今、話を聞くべき筆頭の研究員がこの世から去った現実に愕然としている。

Tumaさんは、BiSに関して、狂ったキャラクターを演じていたのだろうか、それとも激情のままに発言していたのだろうか。おそらく、その両方であっただろう。それゆえにTumaさんの言動はアンビバレントであり、その中に、何者かになりたいという渇望やコンプレックス、ルサンチマン、鋭さ、あるいは思い込みが混沌と漂い、忘れた頃に優しさと生真面目さが顔を出した。それが本来のTumaさんの気質だったはずだ。清濁をあわせ飲みすぎて、常に腹を下しているかのような人物でもあった。

そんな日々も、BiS解散とともに終わりを告げた。彼は電撃ネットワークのギュウゾウさんや、KGY40Jr.のプロデューサーである皮茶パパの右腕として活躍するようになる。

Tumaさんの訃報は、電車で移動中に、やはり2000年代からの仲間であるフランクからLINEで届いた。その通知の文字列を見た瞬間、現実から軽く乖離した感覚になった。私たちは研究員の仲間をすでに何人も失っている。これは現実なのか? 幻覚ではないのか? 現実なのか?

私を乗せた電車は大手町駅に着き、私は大手町三井ホールへと向かった。そういえば、BiSが解散前に動画撮影可能になった時期、映像チーム「離島」を作ったのもTumaさんだったはずだ。そうした自分が前面には出ない活動を多くしていたのもTumaさんの特徴だった。韜晦と自信のなさの両方を感じさせるのが、Tumaさんという人物だった。

会場のBGMが一度大きくなると、すぐにヴォリュームが絞られた。ライヴが始まる。私はビデオカメラの撮影ボタンを押した。撮りながら考える。死というのは油断も隙もない。そして死は不規則に現れる。私はやりたいようにやって生きたい。でも、どうやって? すでに目の前に限りある未来しかない私は、どうやって生きればいいのだ?

Tumaさんは、やりたいようにやって生きれたのだろうか。彼は無職のていのキャラクターだったが、それは事実ではない。TumaさんはTumaさんなりのしがらみの中で生きていたのかもしれない。

私は今年の7月15日で50歳になる。何かしようかとも考えていたが、同じ40代のTumaさんの突然の訃報に、未来の計画を練ることが何もかも馬鹿らしく思えてきた。帰路につく頃、グループLINEには、研究員たちの絶句が並んでいた。

Tumaさんは、「渡辺淳之介」について、奥歯に物が挟まった言い方しかしなかった。本当はどういう評価だったのだろうか。意識的にメジャーなアーティストに接近している最近の私は、Tumaさんの目にどう映っていたのだろうか。もうこの先、何をしてもTumaさんは私を見ていないのだ。

ぼんやりと思いだすのは、Tumaさんが酔ってやらかした後、真夏の中野サンプラザ前で、あるミュージシャンに私が「友人がすみません」と頭を下げたことだ。なんだったんだろう、あれは。わけがわからない言動をするTumaさんの背後には、何かしらの悲哀があった。もちろん気のせいかもしれない。しかし、何も背負っていないただのサイコパスだったなら、あれほど長い時間を共有することはなかっただろう。

こんなに早く追悼文のようなものを書かせやがって、と考えていると、泥酔したTumaさんの「金返せ!」という罵声が記憶の奥から響いてくる。なんなんだよ……。

Tumaさん、ろくでもない人だったけど、でも、ライヴハウスでわめき散らした日々、楽しかったね。