ミロンガのサザンカ

日曜日の昼過ぎだというのに、神保町の人混みは予想外のものだった。同行していた鳥さんを、2022年12月6日に移転のために閉店したミロンガという喫茶店の前に案内しようとしたところ、向かいのラドリオという喫茶店に長蛇の列ができていて驚いたほどだ。

その行列を横目に、私はミロンガ――今日知ったのだが、正式な名前はミロンガ・ヌオーバというらしい――の前に咲き誇る赤いサザンカの花の写真を撮った。その凛とした威厳を記録すべく、露光はマイナスに。雨が残した水滴がそのまま花弁で輝いていた。

神保町は、私が明治大学の学生だったときに通っていた街だ。1、2年のときは明大前駅の和泉キャンパスだったので、御茶ノ水キャンパスに通ったのは3、4年の2年だけだが、思い出は多い。それは、授業に出ないときでも、ジャニスには週3日、規則正しく通ったこととも関係している。ジャニスは、レア盤をこれでもかと揃えていたレンタルCD店。ブライアン・ウィルソンの『Sweet Insanity』のブートレッグを初めて耳にしたのも、ジャニスで流れていたときだった。そのままレジに直行して貸してほしいと懇願したものの、私物だったのか貸してもらえず、渋谷のYellow Popで買うことになった。そのジャニスもすでにない。

鳥さんに30年前の神保町の思い出話をしながら御茶ノ水駅まで歩いた。まず、1990年代にはスキーショップが至ることろにあったはずだ。しかし、我々はなぜあんなにスキーに興じていたのだろう? 鳥さんにとっては、その時代のスキーとは、ホイチョイ・プロダクションズの『私をスキーに連れてって』のイメージだという。たしかに何も不思議に思うこともなく、私たちはあの時代の世俗に飲みこまれていたのだ。

御茶ノ水駅周辺には、かつて多くのレコード屋があった。CD全盛となった1990年代、アナログレコードはレア盤以外は捨て値で売られており、ディスクユニオンなどにある、ダンボールに詰めこまれた100円のアナログレコードを片っ端からチェックして、名盤とされる作品を買い漁った。そのダンボールは「エサ箱」と呼ばれた。「それを栄養にするとこういう大人になるんですね」と鳥さんは笑った。その通りなのだ。

そしてミロンガは、タンゴが流れている喫茶店だった。当時ミロンガに一緒に行った女友達の名前を思いだそうとしたが、ニックネームしか出てこない。なんとか名字までは思い出したが、それでは消息を探しようがないだろう。インターネットが出現する以前の、私たちのオフラインのネットワークはかくも脆弱なものだった。私は中学高校大学の友人の連絡先がほぼわからない。縁を切りたいわけではなく、むしろつながっていたいのに。しかし、インターネット以降の情報の奔流は、それ以前のデータ化されていない情報を跡形もなく流し去った。

ところで、なぜ私と鳥さんは神保町にいたのか? それは、真っ白なキャンバスの小野寺梓さんの写真集の発売記念イベントがあったからだ。会場の書泉グランデの真裏の隣がミロンガなのである。私は記者会見から参加し、日曜日の午前10時に媒体がどれほど集合するのだろうかと考えていたが、記者会見の会場には10以上の媒体が集まっていた。その各媒体がニュースを配信し、私も記事を公開。「小野寺梓」の名が一気に広まっていく。小野寺梓さんもまた奔流の中にいるのだろう。

いいぞ、その調子、たとえ私のことを忘れてもいいから、そのまま売れていけ――と考える乾いた自分と、いや、それは寂しいと考える湿った自分がいる。関係者目線としては前者なのだが、パーソナルな私は、サザンカの花弁の水滴のようなものなのだ。

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