いや、その未来はない

桜の本来の色をすっかり忘れてしまった。「Lightroom 桜」で検索した結果、コンピューター上で現実を操作しすぎたせいだ。曇天の日に桜を撮ったので明るくしようとしたところ、インターネット上には桜をこれでもかとピンク色に加工する情報が溢れていた。今回の写真は、これでも色味の調整はひかえめだ。

こうして2023年の春は、桜の下でポートレートを撮ることもなく過ぎようとしている。私のInstagramのレギュラー陣の誰とも予定が合わず、その他の誰からも撮影を頼まれず、すべての花見の日には取材仕事が入った。しかし、このご時世では、おとなしく仕事をするべきだろう。

今年の春こそ満開の桜の下でポートレートを撮り、Adobe PhotoshopとAdobe Lightroomでゴリゴリに加工しようと決めていた。Instagramを眺めて、気に入った写真を保存し、そこからLightroomのプリセットを買うカメラマンも決めていたほどだ。明るく淡く、それでいて華やかなプリセットの相場は3000円程度で、他のプリセットとのセットで1万円程度で販売されていることも多い。私はふたりのカメラマンから買う気でいたが、前述の状況なので、プリセットを買う必要性自体がなくなった。

快晴の日こそ、朝は憂鬱に沈んで目を開く。そんな日々を2週間ほど過ごしてきたが、桜の満開も過ぎてみると、ずいぶんと私もInstagramに毒されていたものだと思う。TwitterとFacebookでは仕事のことしか書かないと決め、意外と厳密なルールのもと運用しているのだが、Instagramに私の心の隙を突かれた感覚だ。そして、問題は私の心のほうにある。

桜をあと何回見られるのか……という感覚は、私自身にはまだない。ただ、最近になって「その未来はない」と自分自身に言い聞かせることが多くなった。口数が多いわりに、私は子供の頃から空想癖が強かったと思う――「思う」というのは他人の脳内と比較できないからだが。それは現在も続いていて、「あの人に会ったらこういう話をしよう」というようなことをよく考える。しかし、「あの人」に会う未来は二度とないのではないか? そう考えることが日常なかで増えた。過大な期待を抱かないように、想像した瞬間に「いや、その未来はない」と自分自身を戒めることが増えた。

こう書くとかなり絶望している人間のようだが、いや、強烈な絶望を必死に避けようとしているのだ。だから、未来に対して過剰な期待を持つなと自分自身に言い聞かせている。それでいて、桜を見てはポートレートを撮りたいという程度の願望はまだ持ち合わせていたのだ。希望はだらしなく物陰から顔を出す。来年の桜の季節はどうなるのだろう、と想像することも今は自分自身に禁じている。

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