2024年4月13日、安藤未知さんの記念すべき初のワンライヴ「安藤未知 1st わんまんらいぶ『ボくの教室にはたくさんの端っこがあって』」が池袋西口GEKIBAで開催された。踊り手としての5年間の集大成となるイベントの中盤で、でんぱ組.incの「あした地球がこなごなになっても」や大森靖子さんの「新宿」「愛してる.com」をアカペラを歌い、後半に突入した頃、異変が起きた。未知さんが肉離れを起こしたのだ。「人生で一番痛い」とうめきながらステージに横たわる未知さんは、当初脚がつったのだと思われたが肉離れのようで、ステージ上でそのまま踊り手仲間によって脚にテーピングが施された。ライヴを中止しても誰も文句を言わない空気のなか、起きあがった未知さんは会場の人に、さらりと言ったのだ。「椅子に座って上半身で踊る」と。正気か。正気ではないだろう。踊らないと死ぬ人なのだ。
終演後、2日後に出演を予定されていたライヴについて、無理をしないでほしいと私は言ったのだが、そんなことに耳を傾ける人ではなかった。病院に行った未知さんは、椅子に座ったままライヴに出ることを選んだ。この4月15日のライヴでは、未知さんがBiSの「nerve」を歌ったので、私は10年ぶりに「nerve」でMIXを発動することになった。「僭越ながらMIXを発動させていただく」というマインドである。2000年代の現場を生きた身にとっては、MIXにはふたつの意味しかない。精神性とグルーヴに対する解釈である。2000年代は、アーティスト志向に方針転換したアイドルの現場でヲタ芸禁止がアナウンスされることもあったが、「MIXは魂の叫びなのでヲタ芸ではない」とMIXを発動した人間が、そのままスタッフに羽交い絞めにされて会場から締めだされることもあった。そういう時代を生き延びていると、MIXがリズムとずれるなど論外。かくも講釈を垂れているが、10年ぶりの「nerve」でのMIX発動で、結果的に私は終演後にまったく声が出なくなった。
そして、2024年4月末に人生初のミラーレフ一眼のSONY α7CIIを購入し、単焦点レンズとしてSONY FE 50mm F2.5 Gを購入した。もっと安い50mレンズもあるのだが、私は50mm単焦点レンズでしかポートレートを撮れない人間なので、ここは素直に高額なレンズにした。その代わり、望遠レンズはTAMRON 70-300mm F/4.5-6.3 Di III RXD (A047) 、ストロボはNissin i400に。本当は従来のCanonで買い替える予定だったのだが、レンズのマウントが変わり、そのレンズもマウントアダプターも数か月待ちという状況だったので、とても待てる話ではなかった。待たなかった結果、撮影機材を完全に一新することになり、50万円ぐらい散財したのだが。
5月上旬に未知さんのオフ会が開催された町田は、駅から10分ほど歩くと町田市立国際版画美術館に着く。「版画の青春 小野忠重と版画運動―激動の1930-40年代を版画に刻んだ若者たち―」「日本のグラフィック・デザイナーと版画」というふたつの展示が行われていて、横尾忠則のようなビッグネームの作品が撮影可能だった。未知さんは自然が好き、美術館が好きだと言う。喫茶室はご老輩でにぎわい、未知さんは声の反響が苦手だと言うので、人が減るまで私たちは外のテーブルにいた。こういう人が、ふだんはノイズキャンセリングで耐えながら大音量のライヴハウスに出演しているのも不思議だ。
この日は57回しかシャッターを切っていないので、何を話していたのかあまり思いだせない。記憶は写真に付随する。町田市立国際版画美術館はちょっとした森をまとい、周囲より低い土地にあるので、森が稜線を描いているようにも見え、私と未知さんがこれまで話したたくさんのこと、そのすべてが稜線の向こうに消えていくような気がした。