ねっしーの生還

数年ぶりに会ったねっしーは、拍子抜けするほど以前と変わらない雰囲気だった。そこが病室であることを除けば。

2025年2月、ねっしーのSNSが更新され、2024年3月に高熱を出して意識を失いICUに入ったこと、2024年末に意識が戻ったこと、現在は面会ができるようになったことなどが記されていた。そのSNSの更新まで、ねっしーが生死の境を彷徨っていたことを私はまったく知らなかったので、新著『BiS研究員 IDOLファンたちの狂騒録』を持って見舞いに行くとFacebookで連絡した。そう、ねっしーは第1期BiSの研究員だったのだ。

かくして2025年3月後半、がすぴ~、カンジ、私の3人でねっしーの病室を訪れた。19時のリハビリ病院の受付はとても静かで、病室がある上の階に行ったほうが人がいて安心する。すでに一回見舞いに訪れていたがすぴ~が、わりと遠慮なくねっしーのいる個室のドアを開けた。

約9か月間の意識不明を経て現在は下半身不随であるとねっしーがSNSに書いていたので、私はかなり身構えていたのだが、実際のねっしーは冒頭に記したように、以前と変わらない飄々とした雰囲気だった。

ねっしーはIT企業の役員を務めるかたわら、「関根いおん」名義でカメラマンとしても多忙な日々を送っていた。関根いおんの公式サイトを見ると、2021年から2022年にかけて20冊ほどのフォトブックの撮影を担当し、さらにCDジャケットなども手掛けているという仕事量の多さだった。写真展までしている。FRUITS ZIPPERのメンバーの写真も多く撮っていて、まさに「時代」をつかんだカメラマンである。

ねっしーが写真に対してどれだけ厳しいのかも、一緒に仕事をするなかで知っていたので、関根いおんの写真に私が嫉妬することはなかった。2018年からカメラマン活動を始めた関根いおんが、「俺には撮れないな」と思うような写真を次々と撮っていたからだ。光のつかみ方の巧さ、色味の的確さ、大胆な構図など、関根いおんの写真はやはり「時代」を正確に射抜いている。その勢いを前にして、嫉妬している隙もなかった、と言ったほうが正確かもしれない。

病室でたわいもない会話をしながら、ねっしーの手元に置かれていた写真集をパラパラと私が見ていると、ねっしーはこう言うのだ。「それ、俺が撮るはずだったんだよね」。入院生活が暇だと言っていたので、私の『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』と『BiS研究員 IDOLファンたちの狂騒録』を差し入れた。合わせて28万字あるので、多少の暇つぶしになれば幸いだ。

ねっしーの退院の見込みが立っていることには安心した。カメラにずっと触れていないと言うので、私のSONY α7C IIを渡して我々を撮ってもらった。たった1枚で、腕が落ちてないことがわかる。

病室には、ねっしーがリハビリで不在の間にオタク仲間が勝手に置いていったというパネル類があり、訪れる人にいちいち説明するのが面倒だと笑っていた。千羽鶴とのハイブリッド型のパネルまである。普通はパネル芸の文化はないし、そもそも俺たちのパネル芸の文化ってなんなんだろうな。