最近できた友達は15歳。でも、年齢差はほとんど感じない。彼女は、たぶん子供でいる猶予があまり与えられなかった人種だからだ。いろいろな環境で育ってきた人々を見ていると、現在の社会においては、子供時代を子供として過ごせることは、ある種の特権であると教えられる。
そして、子供だけれど早く精神的に大人にならなければ生きていけなかった人種と、私のような長すぎるモラトリアムの中で惰眠を貪っている人種は、意気投合できる部分があるらしい。ふたつの輪が重なり合う、わずかな部分のように。
彼女の名前は「だでぃが」。共通の友人・さいとうさんの紹介で知り合った。だでぃがはシンガーソングライターで、ギターも弾けば、トラックメイクもする。15歳でだ。そして何より、歌がうまく、澄んだメロディーと生々しい歌詞を書く。15歳でだ。よく大森靖子さんのカヴァーも歌っているが、歌詞の一字一句を覚えている。まるで、その歌詞によって生き延びてきたかのように。
だでぃがと私は、よくTwitterのスペースで話す。何人が聞いているかリアルタイムで表示されるので、私はそれを極力見ないようにしているのだが、最低でも常に20人はいる。そうした場で、だでぃがは妙に大人びているように感じる。
ところが、さいとうさんたちも交えて実際に会うことになってみると、そこに現れたのは年相応の子供だった。もちろん、いつも通りに小生意気であり、私を近所の友達のように「あきまさ」と呼び、私の痛いところを大笑いしながらおちょくってくる。そのクソガキ感に、私は不思議と安堵したものだった。子供には、子供として振る舞える場を大人が与えないといけない。
という私の身勝手な思いはさておき、2度目に会ったのはライヴハウスだった。だでぃががステージに立つ姿を、私が見たのだ。年齢差を考えれば逆のほうが自然なのだが、現実には不自然なことのほうが起きるものらしい。私は、まだサブスクにもなければ、YouTubeにMVもない「東京ちかちか」という楽曲が大好きだ。この日のステージでも歌われた。
だでぃがはステージを降りると、また子供に戻ったような気もしたが、いや、誰もが、年齢の概念を無視して他者と関わる彼女の姿勢に救われているような気もした。
だでぃがの左腕にはリストカットの生傷……は一切なく、油性ペンで豪快に文字が書かれていた。この日のセットリストらしい。本人にしか解読できない。「東京ちかちか」が何曲目に歌われたのか、私は今もわからないままなのだ。