OMOIDE-ZUKURI IN MY HEAD

2002年11月30日のナンバーガールの最初の解散ライヴのチケットを、私の周囲で手にした者は、たったひとりだった。当時まだ20歳過ぎだった、かちゃくちゃくんである。彼は90年代末の高校生時代から「大衆決断」という個人サイトを運営していたが、ナンバーガールとの出会いにより、「大衆決断」の下位ディレクトリにナンバーガールのサイトを新たに作るほどのめりこんでいった。

解散ライヴの会場は札幌PENNY LANE 24。キャパシティは500人だ。コロナ禍の現在では考えられないほど詰めこまれたファンの中にかちゃくちゃくんはいた。解散発表時、札幌に行く気なのかと私が聞くと、彼は「行きますよ」と即答したものだ。そして、チケット争奪戦を勝ち抜き、LCCすらも一般的ではない時代に、彼は札幌へと旅立った。

その半年前、2002年5月19日の豪雨の日比谷公園大音楽堂のチケットは、かちゃくちゃくんから譲ってもらって一緒に見たものだ。この日の音源は、再結成後の2019年に『感電の記憶』と題してライヴ盤がリリースされた。たしかにバンドも感電しかねないほどの雨だったのだ。当時、野音で雨が降りそうになると、500円のレインコートをリヤカーに山積みにした男が会場前に現れ、私たちはそれを買ってなんとか開演後の激しい雨をしのいだ。荷物は野音の椅子の下へ。身に着けている電子機器がまだ少ない時代の話だ。

2022年12月11日に開催されたナンバーガール2度目の解散ライヴ「NUMBER GIRL 無常の日」で、かちゃくちゃくんのことを思いだしていたのは、彼が2015年にこの世を去ったからだった。30代半ばでの突然の死だった。葬儀で再会したかちゃくちゃくんは、目を閉じたまま。何死んでるんだ、目を開けろ、奥さんを残して。そんなことを心の中で叫んでいた記憶がある。

かちゃくちゃくんとはある時期から疎遠になっていた。Twitterにアカウントがあるのは知っていたが、フォローすることはなかった。彼からしたら、無邪気にサブカルに興じ続ける私は疎ましい存在なのではないか。そう感じていたからだ。かちゃくちゃくんの突然の死は、私に強い後悔を遺した。

かちゃくちゃくんが死んだのにナンバーガールは再結成し、そして再び解散することになり、私がその会場にいる。私が? 7年経っても、彼の死を自分が飲みこめていないことに気づいた。

かちゃくちゃくんの死後、クレジットカードの停止に伴うものだろう、サブカルチャーの膨大な知識が蓄積された「大衆決断」は、@niftyのサーバから消滅した。逆に言えば、彼は死ぬまで自身の手で「大衆決断」を消すことはなかったのだ。若く青かった時代の軌跡を。

かちゃくちゃくんと初めて会ったのは、1999年の広末涼子さんの武道館ライヴ後だった。私がPHSで「人が多いから物販で買ったTシャツを頭に乗せてます」と言うと、その姿を見て笑いながら、高校生だった彼がやってきた。その後、食事に入った店で彼は迷わずビールを頼んでいた。

かちゃくちゃくん、今日の向井秀徳は、「福岡県博多区からやって参りました」と12回も言っていたよ。3時間もやっていたよ。「透明少女」は4回もやったのに「OMOIDE IN MY HEAD」は1回だけだったよ。そのくせ「思い出作り」と2回言っていたよ。でも、それは本気で、気が済んだのかもしれないね。

気づいたら俺はなんとなく50歳だったよ。