一人ひとりへの気持ちが大きすぎる

育実さんの写真を撮った2024年4月上旬、私たちが会うのはまだ2回目で、初めはどこかぎこちなさがあった。ところが撮影が終わり、シカゴピザという成分の95%をチーズが占めている食べ物を口にする頃には、「宗像さんはInstagramを読むと、一人ひとりへの気持ちが大きすぎます、それをひとりに負わせようなんて、巻き添えにしちゃダメですよ」と、私をメッタ刺しにするようなことを育実さんが言いだし、私は口からチーズの泡を次々と吹きそうになっていた。

育実さんは本人いわく「一般人」。実際にその通りなのだが、XとInstagramとTikTokのフォロワーが計22万人以上いるという特殊な一般人だ。彼女が被写体になっている写真は、尖っていたり、儚かったり、ファンシーだったりと多彩なのだが、全体としては陰影の濃さが余韻を引く。XとInstagramのプロフィールに記されている言葉は「神聖な少女性」だ。

そんな育実さんの写真を撮らせてもらうことになったきっかけは、写真というよりも文章だった。彼女のnoteの文章は、自身が見たこと、感じたことを実寸で描いているかのような生々しさがあり、育実さんの記憶を他者の脳内にありありと再生させるほど、高い解像度と透明度を誇っていた。私が育実さんの年齢だったとき、こんな文章を書けなかったと思うほど語彙も豊かだ。それは彼女が昨年制作したZINEでも同様で、そのタイトルは題して「処女信仰」。そして育実さんもまた、私のInstagramのキャプション欄を埋め尽くす長文を読んだうえで撮影を快諾してくれた。大丈夫なのか、これは怪文書なんじゃないのか?

暴風雨が過ぎ去った後の新宿御苑は、桜の花びらがカーペットのように敷き詰められていた。私たちを取り囲む外国人観光客たちには、白いソメイヨシノよりもピンクの八重桜のほうが人気だ。そして、散った桜の花びらに美しさを感じるのは、そこらじゅうに桜が咲いている地に暮らす日本人特有の感性なのかもしれない。

育実さんは、篠山紀信が栗山千明を撮った写真集「神話少女」を部屋に飾っている。そういえば私も栗山千明さんと一緒に撮った写真があるんだよ……と、ピザ屋で2000年の写真をiPhoneで見せたところ、育実さんは写真の若くて痩せている私と、目の前にいる現在の私をそれぞれ指差し確認をして、目を見開いて爆笑しはじめた。俺も信じたくないんだよ……。

育実さんは、距離が詰めらると察した相手とは、どんどん距離を詰めていくという。それが事実であることは、もはや攻守の形勢になったことからも明らかだった。もちろん育実さんが「攻」、私が「守」だ。私の著書が立て続けに発売されたことについて、「そんなにうまくいっていて、これ以上を求めるのは贅沢ですよ」とまで言う。私の塹壕が崩れていく音が聞こえた。

ピザ屋からカフェに場を移した頃、もう一度だけ育実さんに確認してみる。
「で、俺は孤独死しかないわけ?」
「はい」
育実さんは「待っていました」とばかりに言い切る。噛み殺せなかった笑みが、口の端に浮かんでいる。

とはいえ育実さんも、激情をも言語化できてしまう人間ならではの苦しみを抱えているのだろう。自身についても客観的に見ることができてしまうがゆえに、感情に身を任せることができないもどかしさもあるはずだ。対人関係においても自身の内面においても、問題を楽しんでいる部分もありつつ、そんな自分を持て余しているアンビバレンスを抱えていて、それはそれで大変だと思うけれど、そういうほうが人間は面白いんじゃない?

という話を本人にしなかったのは、私の心を掻き乱せば掻き乱すほど、育実さんが楽しそうで満足げだったからだ。たまったものではない。でも、目の前にいる魔性のようなブルータル・ユースに、そのままでいてくれと願う私がいた。

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