23年前のことを23秒前のことのように思いだす

著書『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』が2023年12月26日に発売され、2024年に入ってからプロモーションも兼ねてイベントに出るようになった。コロナ禍以降、「ヤブ医者ごまかせNight」と「アイドル楽曲大賞」にしか出ていなかったことが嘘のようだ。私の中では、2024年1月20日に渋谷LOFT9で五味未知子さんが開催した「あの日、死ねなかった私へ」からカウントしているので、五味ちゃんイベントについては当該の投稿を見てほしい。

2024年2月7日には、新宿ロフトプラスワンで「創業者自ら語るライブハウス『ロフト』の半世紀~平野悠『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)刊行記念トークライブ~」が開催され、私も出演した。こう書くとあっさりした話のようだが、とんでもない。平野悠さんはロフトプロジェクトの創始者であり、そのライヴハウス群で私は多くのライヴを見たり、トークイベントに出演したりしてきた。かつて平野悠さんに「私はあんたの文章のファンなんだよ」と言っていただいたときには感激したものだが、そもそも私は、平野悠さんが作ってきた「場」に多大な影響を受けてきた身であり、文化的に平野悠チルドレンなのだ。

さらに今回は牧村憲一さんも出演。私が1歳のときに大ヒットしたかぐや姫の「神田川」から、90年代のフリッパーズ・ギターなどなど、牧村憲一さんの仕事を聴いて育ってきた身としては、身の引き締まる思いだった。とはいえ、実際にイベントが始まってみると、平野悠さんの暴走に私が突っこむ流れに自然となり、それもとても楽しかった。平野悠さんにはインタビューもしてきたが、こうして一緒に満員のロフトプラスワンに出演する日が来るとは想像もしなかったのだ。

この日は、来場していた三浦光紀さんに『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』を渡すこともできた。

2024年2月11日には、新宿ロックカフェロフトでの「話す、松永天馬~第二十三夜:話す、ムーンライダーズ~」に出演した。イベントの主催者は、私のズッ友であるアーバンギャルドの松永天馬さん。もう10年以上前のことになるのだろうか、松永天馬さんが浜崎容子さんとの配信中に、私のことをズッ友だと言ってくれたことを忘れていない。アーバンギャルドが『少女は二度死ぬ』を全国流通盤として2009年にリリースしたときに、今はなきbouce.comのためにインタビューをしたのが松永天馬さん、浜崎容子さんとの出会いだった。そして、2011年12月30日、無期限活動休止をひかえたムーンライダーズがタワーレコード新宿店屋上で行った「ルーフトップ・ギグ」の際に、当時20代のミュージシャンがふたり来場していることを知っていた。松永天馬さんと、スカートの澤部渡さんである。

今回は松永天馬さんから、「話す、松永天馬」シリーズの初回に呼んでもらった。その最後では、松永天馬さんの歌うムーンライダーズの「スカーレットの誓い」に私も参加させてもらった。薔薇がなくちゃ生きていけない。

この日は、アーバンギャルド現場で知り合った友人の多くが『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』を買ってくれたり、持ってきてくれたりして、初めてお会いする方も含めて、10人以上にサインをさせてもらった。

2024年3月6日には、本屋B&Bで「宗像明将×澤部渡×佐藤優介 <鈴木慶一を語ろう> 『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』」が開催された。本屋B&Bの酒井匠さんが、もっとも早くイベントを開催しないかと打診してくれたのだ。ムーンライダーズのサポート・メンバーの澤部渡さんと佐藤優介さんを招くというアイデアを出してくれたのも酒井匠さんだ。

なお、このイベントに関しては、2月末に鈴木慶一さんに会った際に「出てくれませんか?」と言ったところ、「俺の話をするには、俺がいないほうがいいでしょう」と笑っていた。鈴木慶一さんらしい。

澤部渡さんのスカートを初めて見たのは、2011年8月18日に下北沢SHELTERで開催された「第二回SHELTER異種格闘」。スカートを初めて見たときの衝撃は、終演後の澤部渡さんに私が口走った「あなたは日本のマシュー・スウィートだ」という言葉によく表れていたし、今回のイベントでも澤部渡さんがその話題に振れてくれた。そんなスカートのライヴを見ていくなかで、2011年9月16日には秋葉原3331で佐藤優介さんのカメラ=万年筆を見る。スカートのライヴに佐藤優介さんが加わった当初、客席に背を向けてキーボードを演奏していた姿の衝撃は忘れがたい。その澤部渡さんと佐藤優介さんは、2021年6月12日にEX THEATER ROPPONGIで開催された「moonriders 45th anniversary “THE SUPER MOON”」以降、ムーンライダーズにサポート・メンバーとして加わるようになる。

澤部渡さんと佐藤優介さんにもインタビューをしてきたが、こうして人前で話すのは初めてのこと。終演後、私にサインの列ができてくれたことも恐縮するほどありがたかった。また、静岡県在住であり、私の20年来の友人であるJIMMY小野田さんが来てくれたことも嬉しかった。私たちは植田清吉さんも含めた3人で、1990年代後半に「べいすめんとるうむ」という日本語ロックについてのミニコミをコピー誌で作り、コミティアなどで頒布していたが、『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』の出版により、あの活動は正しかったのだと言いきれる気がした。気がしたのだ。

2024年3月11日には、SUPER DOMMUNEでの「セカンド・スパンクハッピー・レトロスペクティヴ・前夜祭」に出演した。2023年12月にサブスクで聴けるようになった第2期SPANK HAPPYについてのイベントであり、3月初頭の打ち合わせで、私は菊地成孔さんに約20年ぶりにお会いした。

「セカンド・スパンクハッピー・レトロスペクティヴ・前夜祭」には、「Quick Japan」元編集長の北尾修一さんとともに私は「生き証人」枠で出演した。菊地成孔さんと岩澤瞳さんによる第2期SPANK HAPPYが活動していたのは21世紀初頭。すでに約20年前の話なのだ。

そこで特に差しはさむレベルでもなかったエピソードがひとつある。岩澤瞳さんに初対面した2001年3月10日の渋谷クラブエイジアで、彼女が私のダッフルコートのトッグルをかけてくれたのだ。23年前のことを、私は23秒前のことのように思いだす。結果的に、2000年8月20日の第2期SPANK HAPPYのデビュー・ライヴ以降の多くのライヴを私は見ることになる。

この日は、浜崎容子さん、電影と少年CQのゆっきゅんさんとルアンさん、長田左右吉さんも出演。私がイベントで第2期SPANK HAPPYについてずっと「気持ち良かった」と言い続けた成果なのか、SUPER DOMMUNEの宇川直宏さんに「最高だった」と言ってもらえた。

こうしてイベントに呼ばれることもありがたければ、すべてのイベントに旧知の友人が来てくれたこともありがたかったし、すべてのイベントで新しい出会いがあった。『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』があってこその機会であり、鈴木慶一さんとマネージャーの野田美佐子さん、株式会社blueprintのみなさんをはじめとして、出版に向けて協力していただいたすべての方々に改めて感謝したい。発売から1か月も経たずに重版となり、買っていただいた方々にも改めてお礼を申し上げたい。本当にありがとうございます。

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