1998年の大江健三郎「政治少年死す」

1998年当時、大江健三郎の「政治少年死す」を読むためには、初出である1961年の「文學界」2月号を探すしかなかった。発表後に右翼団体から脅迫状が送られ、2018年にようやく「大江健三郎全小説3」に初収録されるまでの期間の話だ。

当該の「文學界」1961年2月号は、東京都立中央図書館に所蔵されていた。たぶん私は、都内の他の図書館から検索システムを使って発見したのだと思う。そして、「政治少年死す」の全ページを複写コーナーでコピーして持ち帰った。そのコピーは今も捨てていないはずだ。そんな面倒な作業をしなければ読めないという禁忌の香りもまた「政治少年死す」を魅惑的なものにしていた。

もちろん、主人公が首を吊って射精しながら息絶えるラストシーンの鮮烈さは言うまでもない。

その数年後だろうか、インターネット上に「政治少年死す」のテキストファイルが存在するのを見かけたことがある。ノーベル文学賞作家の作品がアンダーグラウンドな形で流通していた。

初めてリアルタイムで読んだのは、1999年の「宙返り」上下巻だったと思う。私は1950年代から1960年代までの大江健三郎の作品群を愛好していたので、「宙返り」の難解さに面食らったものだ。主人公が女性の陰毛が好きであるということしか思い出せない。いや、この記憶は正しいのだろうか。

「死者の奢り・飼育」に収録された作品群では、当時の日本社会において進駐軍の存在がいかに大きかったかが描かれる。誰もがアメリカ兵により恥辱を受ける。尊厳を汚されながら生きる。終戦とともに、ある日突然天皇が現人神から人間になる世界を体験した人間ならではの視点だ。しかし、それは同時代の日本の小説家全員が経験したはずのことでもある。そのなかでも大江健三郎の露悪的なまでの描写は、強烈に私を惹きつけた。

大江健三郎が2023年3月3日にこの世を去った。前述したように、彼と同時代を生きることよりも、1950年代から1960年代の作品群に耽溺し続けた私は、良い読者ではなかっただろう。ただ、私の世代は「敗戦」など経験したことがないのだから、終戦後の日本社会に生きる人々を生々しく、いや生臭いまでに描いた作品群に惹かれたことを赦してほしい。